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Christian Wolmar著 "To the Edge of the World: The Story of the Trans-Siberian Railway" [海外]

2019年9月7日の日記

to the edge of the world.jpg

Christian Wolmarの本を何冊か読みました。鉄道の世界史とも言うべき,邦訳も出ている "The Blood, Iron and Gold" や 世界初のロンドン地下鉄の歴史を描いた,"The subterranean railway” のほか,ブログには書いていませんが,鉄道と戦争の関わりを描いた,"Engines of War" も面白かったです。

Wolmarは一貫して鉄道の歴史に関する本を書いているのですが,どれも正確な記述と詳しい内容が魅力で,また,エピソードが面白く,どれも読むと笑えます。鉄道に興味のある人なら,ご一読を勧めます。また,Wolmarがすごいところは似たようなテーマの歴史本にも拘わらず,ほとんど重複した内容がないことで,また,一部重複するところは○○○にも書いたが,と言う具合に明示しているのは好感が持てます。

残念ながら,日本の作家で,このような人はいないでしょう。鉄道関連だとたくさんの本があるのですが,書いているのはほんの数人で,どれも似たようなものばかりだし,はっきり言ってもう飽きてしまいました。特に,鉄道だけでなく,飛行機なども書いている,ある作家はどれも同じ内容ばかりで,せいぜい,出版社が違う,程度の差しかないと思います。

その点,Wolmarの本はどれも重複するところがなく,いずれも面白いテーマの本だと思います。

ただ,iruchanは今まで,この本は読んだことがありませんでした。なによりシベリア鉄道の歴史なんて.....って感じで,日本人にはなじみがないし,特に鉄のカーテンの向こう側の鉄道なんて興味がわかないし,と,思っていたのですが読み始めたらとても面白い内容でした。そもそも,日本とシベリア鉄道なんて,関係大ありなんですよね....。

1904年の日露戦争の発端はこの鉄道の開通にあった,と言っても過言ではありません。特に,東清鉄道(Chinese Eastern Railway)をロシアが建設し,ハルビンから支線を伸ばして旅順まで鉄道が延びるようになると,満州をロシアが実効支配でき,また,ロシアが1898年に清から租借した旅順は日本の保護国であった朝鮮の目と鼻の先ですから,そこに巨大な軍事基地をつくり,艦隊を常駐させれば黄海の制海権を奪い,かつ,鉄道により基地までの補給が盤石となる.....というのは脅威でしかありません。実際,日清戦争時に清の北洋艦隊の基地がありましたし,租借後はロシアが大幅に増強していました。日露戦争時の二百三高地など旅順要塞攻防戦は有名ですね。座視すると朝鮮半島の安全も保たれなくなり,対馬海峡までロシアの勢力下,ということも現実となる恐れがありました。

もちろん,中国に重大な関心がある英国がロシアを警戒し,日本と同盟を結んだのもロシアの南進を警戒したものであることは言うまでもありません。

ということで,この本にもたくさん日本に関する記述がでてきており,また,英国の歴史家らしく,その視点は公平で正確なものである,と思います。そう思いながら読み進めました。

話は帝政ロシアの時代,ロマノフ朝 第6代皇帝のエリザヴェータ・ペトロヴナの時代(在位1741~1762)まで遡ります。

当時,すでにロシアの領土は沿海州にまで及んでいたのですが,ウラジオストックまでの行程は1年以上かかり,官吏の任官もそれこそ1年以上かかっての移動の末,と言うことで大変なものでした。すでに米国のように4頭立て12人乗りの駅馬車が発達し,シベリア域内の交通を担っていましたが,10マイルごとに馬を交代させねばならず,また,駅逓の役人に賄賂を払わないと翌日発になったり,国土が広すぎて街道の警備は不十分で,そのため山賊が跋扈し,行路の安全も十分に保証されているとは言えませんでした。

また,当時もソ連時代も,国内の移動にもパスポートが必要だったので,山賊にパスポートまで奪われるとペテルブルクには帰れなくなってしまいます。1年もかかる,と言う行程上,夜行馬車を運行することもあったようですが,居眠りによる事故も絶えなかったようです。また,過酷な自然は冬期にはタランタス(tarantass)と呼ばれる2頭立て4人乗りのソリが主力となりました。19世紀に入るとアムール川を利用して船や筏を使って時間短縮が図られ,最後には蒸気船も登場しますが,これとて川が凍結する冬以外の交通手段です。

女帝の即位を祝うため,カムチャツカ半島から6人の現地部族の処女たちがはるばる9000マイルの行程を経てペテルブルクに派遣されましたが,1年後,途中のイルクーツクに着いた時点で護衛兵との間に子供が生まれており,呆れた上官が兵士を罷免し,新任の兵士に交代させたところ,ペテルブルクに着く頃にはすでに異父きょうだいを連れていた.....という西洋では有名? なエピソードからはじまります。

このような交通問題を解決し,シベリア地域の行政を確立するとともに資源開発を進めるため,シベリア横断鉄道の建設が検討されます。

しかしながら,全長5750マイル(9255km)もあり,1863年に建設がはじまった米大陸横断鉄道の1780マイルとは比べものにならない距離です。冬期の平均気温はー15℃にもなり,永久凍土地帯にレールを引く,というのは膨大なコストはもちろん,枕木などの資材の確保のほか,労働力希薄な地帯でいかに労働力を確保するか,と言うことも問題になりました。ちなみに,宮脇俊三の "シベリア鉄道9400キロ" にもあるとおり,現在のシベリア鉄道は9400kmですが,この数字が異なるのは,最初の東清鉄道経由の場合ではなく,純粋にロシア領内のみを通過するアムール鉄道経由の場合であり,またシベリア鉄道自体も後で出てくるチェリャビンスク経由でなくなったり,経路がいくつか変わっているためです。

ロシア最初の鉄道はサンクトペテルブルク近郊のツァールスコエセローの6フィート鉄道(後にロシア標準の5フィート軌間に改軌)で,1837年のことです。その後,西に延び,ワルシャワ(当時ロシア領)を経て,ウィーンにつながります。

モスクワとペテルブルクがつながるのは1851年のことです。ウラル山脈の東側,チュメニ~チェリャビンスク間が開通するのは1883年のことですが,ウラル越えの区間が開通するのはシベリア鉄道の全通まで待たないといけません。また,チェリャビンスクが実質的にシベリア鉄道の起点となります。しかし,ここからウラジオストックまでは4500マイルもあります......。

課題はやはり財源。1857年のクリミア戦争や1877年の露土戦争などで戦費がかさんでいた上,ヴォルガ付近で飢饉が発生したり,貧弱なロシア経済では長大なシベリア横断鉄道の建設は困難でした。

しかし,ここでウィッテが登場します。日露講和条約の交渉時にミスター・ニェットとして日本に煮え湯を飲ませたことで有名な,あのウィッテです。彼は鉄道大臣を経て大蔵大臣に就任し,シベリア鉄道の建設を進めます。第1次ロシア革命後の1905年には首相に就任します。

彼はクリミア戦争で鉄道が補給に有効なのをよく知っており,また,シベリア鉄道がロシア経済の発展につながることを長期的な視点から考えていました。

シベリア横断鉄道の建設を決めたのはアレクサンドル3世(在位:1881~1894)です。彼は長男のニコライ(後のニコライ2世。在位:1894~1917)を東の起点,ウラジオストック駅に派遣し,1891年5月31日,起工式を執り行いました。皇太子が直々に起工式に参加する,と言うことはロシア国民に鉄道の重要性を示す狙いもありました。

ちなみに,彼は5月11日に大津で受難しているのですが,この起工式に参加する途上のことでした。もちろん,彼が日本を経由してウラジオストックに行ったのは,自国内を陸上移動するより,軍艦で移動する方が安全で快適,というわけだからです。

          ☆          ☆          ☆

シベリア鉄道自体,優秀な技師を得て,困難な自然環境の中で急速に工事は進展し,一応,1903年に全通します。

一応,というのは.....鉄道でモスクワから行けるのはバイカル湖畔のイルクーツクまでで,対岸までは夏期はフェリー連絡で,冬期は凍結した湖上の仮設線路を使いました。事故も多く,多数の車両が湖底に沈んだようです。

東岸のミソフスク(現バブシュキン)からスレテンスクまでは再び鉄道でしたが,そこからハバロフスクまで1000マイルをアムール川のフェリーで下る、という具合でした。ハバロフスクからはようやくウスリー鉄道でウラジオストックまで,と言う次第で,モスクワからウラジオストックまで6週間を要する,という具合でした。

難工事のバイカル湖周鉄道が開通し,大興安嶺を抜けて東清鉄道経由でウラジオストックまで,完全に鉄道がつながるのは日露戦争直前の1904年2月のことです。

ここで,iruchanは長年疑問に思っていました。

中学の頃,シベリア鉄道のことを習ったのですが,どう見ても中国を通る路線が教科書に載っていて,どうしてシベリア鉄道なのに,中国を通っているんだ? って思っていました。それが東清鉄道という名前だ,というのを習ったのは高校の時ですが,そのときですら,どうして東清鉄道が中国領内なのかはわかりませんでした。

ようやくこの本で疑問が解けました。

なんと,東清鉄道はロシアが建設したのですが,清が建設を許可したのは,日本との戦争が避けられないと考え,早期に旅順やウラジオストックとの交通を確保しておきたいと考えたロシアが,日清戦争の際に戦費調達のため清が発行した戦時債権を購入していて,その償還を減免する代わり,清に建設を認めさせた,と言うのです。

ようやく納得。そういうわけだったのか.....。

交渉に当たったのはウィッテと李鴻章(Li Hongzhang)。ニコライ2世の戴冠式に参列する李をスエズまで迎えに出向いて歓迎し,秘密交渉をまとめました。

あくまでも東清鉄道は私企業とし,表向きはロシア政府とは関係ないことを装うことを約束した上で,警備のために軍隊を配置することまで認めさせます。清は線路以南に派兵することを禁じましたが,ロシアは守るつもりはさらさらありませんでした......ロシアも満州の支配をもくろんでいました。後に日本も同じ手法を用いるわけですが,やはり歴史は繰り返すのですね。

東清鉄道経由となったのは,アムール川北岸はあまりにも自然環境が厳しく,ウラジオストックまでの線路をできるだけ南側に敷いた方が建設が楽だったためです。
 
とはいえ,チチハル(斉斉哈爾)からハイラル(海拉爾)までの区間は山岳地帯であり,大興安嶺を長大トンネルとループ線を組み合わせた線路で抜けることからもわかるとおり,東清鉄道の建設は非常に困難だったようです。もっとも,そのループ線前後は最近,新線に切り替わったそうですね。

日露戦争後も東清鉄道はロシアの経営のままで,一応,日本との取り決めで軍用列車は走行禁止になっていましたが,このままだと再び日本と戦争になった場合はまずいと考え,純粋にロシア領内のみを通過する鉄道の建設が進められます。

アムール川沿いのアムール鉄道が開通し,現行のシベリア鉄道のルートが完成するのは第1次世界大戦中の1916年のことです。

          ☆          ☆          ☆

この後,ロシア革命が起こり,シベリア鉄道も混乱の渦に巻き込まれていきます。

有名なのはロシア戦線に取り残されたチェコ軍で,ロシアの講和直前に寝返ってドイツ軍と戦っていました。こうなると,武装解除して帰国するとドイツ軍に虐殺されると恐れ,東へ逃げようとします。それを助けるためと社会主義革命に干渉する目的で連合軍が組織され,米,英,日など各国の軍隊が派遣されることになります。

実は日本だけ,別の意図があったことはご存じのとおりです。1920年3月,ニコライエフスクで現地パルチザンに包囲され,700人の日本人居留民と兵士が虐殺されました。尼港事件ですね。これもこの本に書かれています。

一方,日露戦争で日本が得た,南満州鉄道は長春から南の区間だけで,依然としてハルビン周辺と東清鉄道などはロシアの支配下でした。

極論を言えば,日露戦争って,この南満州鉄道の利権を得ただけというのが実情ではなかったのかと....。東清鉄道だって,戦後もロシアが経営していて,のちにアムール鉄道が開通してロシアにしてみれば不要になっていたのを,それも満州事変後の1935年になって買収したわけですしね.....。領土的に南樺太を得たのは奇跡的と言ってよく,それでも樺太全土ではないし,また,広い満州全体を植民地としたわけでもないことに不満を持っていた,本来は鉄道警備部隊であるだけの関東軍が謀略を起こして満州全域を支配していくわけです。

日本がロシアに勝ったとは言っても,局地的な軍事作戦に勝利しただけで,本気でロシアが戦った訳ではなかったことを日本人はよく知っておくべきだったと思います。

最近,歴史学者の間で,日露戦争を第0次世界大戦とする見方が広まっているそうです。実際,日露戦争は国力を挙げた総力戦のさきがけでした。軍艦も巨大化しつつあり,28サンチ砲など,軍事力も高度に機械化し,のちの世界大戦の萌芽が見られます。

幸い,日露が第2次世界大戦のような総力戦となる前に,米国がおそらく,これ以上のロシアの勢力圏拡大を恐れ,もちろん日本の勢力拡大も望まない上,中国に何らかの下心があって仲介してくれたから勝利しただけであったことを日本人は知るよしもなく,後の戦争につながっていきます。

シベリア鉄道の歴史かと思っていたら,20世紀の日本やアジア周辺の歴史まで復習することができ,本当によい本だったと思います。

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