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白井久夫著 "幻の声NHK広島8月6日" [文庫]

2023年12月17日の日記

幻の声.jpg

とうとう,日本のAMラジオは終焉の時を迎えつつあるようです

民放は2028年までにFMに移行することが決まりましたし,NHKも,第2放送を2025年度には打ち切る予定です。

2028年以降も,北海道放送と秋田放送はAMを継続すると宣言していますし,NHKは第1放送は継続されるので,AMラジオが終わってしまうわけではありませんが,2028年以降,日本の大部分ではNHK第1のみ,という状況になりそうです。

それで,改めてAMラジオのことを調べているんですけど,広島の放送局について調べていたら,こんな記述にぶつかりました。

1945年8月6日の原爆投下直後,ラジオから,

「こちらは広島中央放送局でございます。広島は空襲のため,放送不能となりました。どうぞ,大阪中央放送局,お願い致します。大阪お願い致します。お願い致します......」

と女性の声でアナウンスがあり,30分ほど続いたあと途切れたという投書が,現在は福山に住んでいる女性から筆者の元に届いた,というのです。

そういえば,iruchanは,ちょっとこの話を覚えていました。残念ながら,もう,すっかり忘れていて,ネットで見つけて思い出した,と言う次第です。

その後,筆者が制作した番組が放送されたようですが,さすがに1975年3月のことらしいし,ラジオだったので聴いていないと思います。ただ,NHK特集だったか,何かの番組で見た記憶があります。

名作アニメ "この世界の片隅で" で,広島放送局が沈黙し,岡山局が「応答してください」と呼びかける場面が描かれていますが,広島からもあとで書きますが,先ほどの女性の放送のあと,数時間経ってから,男性が他局への連絡を呼びかける放送を日中行ったようですが,ただ,女性の声で投下直後に放送があった,と言うのは本当だったのか,もし,本当だとしたら誰が放送したのか......と言うのがこの本のテーマです。

とはいえ,iruchanも最初,この記述を見つけたとき,ウソだろう,と思いました。戦中,戦後にあまたある幽霊話や怪談のひとつではないか......と。

そもそも,当時,広島放送局は上流川町にありましたが,爆心地から1kmほどしかありません。また,この本の冒頭に写真がありますけど,周囲は一面の焼け野原でめぼしい建物はこの放送局ともうひとつある(おそらく,現存する福屋百貨店ではないかと思います)だけで,局員はとても生存していなかっただろう,と思いました。実際,36名の方が殉職しています。当然,放送所(送信所)との連絡も途絶え,それに,そもそも停電しているだろうし,それで放送ができるわけがない....と思いました。

放送局自体は復興し,同じ建物で1960年まで使用されました。現在,跡地に建ったショッピンセンターに銘板が取りつけられています。

広島放送局,原放送所(海田市 '52.9.30).png 

  広島放送局と原放送所(海田市'52.9.30)

   今昔マップon the webから。

終戦直後の怪談としては,iruchanが知っているものでは,青森の尻屋崎灯台の怪談が有名ですね。

戦後のある嵐の夜が明けて,翌日,灯台の照明のおかげで無事に港に戻った漁民がお礼に灯台に行くと,戦時中の銃撃で照明が壊れ,現在修復工事中で,照明が点灯するわけがない,と言われた。また,その銃撃の時に1人,殉職しているとのこと.....。

これには後日談があり,当時の灯台長が確認し,公文書に記載していることもよく知られています。

このラジオの声もこういう怪談話のひとつではないか,と最初,思いました。

先ほどの投書した女性は断固として,原爆投下直後だったと主張しますし,他にも証人がいて,実際にあった話のようです。

実際,投書した女性は当時,三次市に住んでいて,広島からは60kmほど離れているので,直接,原爆の被害を受けたわけでなく,ラジオも停電していなければ聴くことができる状況だったと思います。

とすると問題は放送局なのですが,上記のようにスタジオは爆風で壊滅状態のはずだし,設備も大きく被害を受け,たとえ生存者がいたとしても放送することはムリではないか,と思いました。

すぐにiruchanが考えたのは演奏所(放送局)からではなく,放送所からだったのではないか,ということ。

事実,現在でも,ラジオの送信所は何らかの緊急放送設備を備えていることが多いです。

当時,広島中央放送局は演奏所は上流川町ですが,放送所は5kmほど北に離れた原放送所です。現在も同じ場所にNHK広島の祇園ラジオ放送所があります。

ここから,実際,当日,正午前から男性の声で放送が始まり,翌7日には正式に放送を再開しています。

でも,筆者が1人ずつ,検証していくのですが,放送所には女性の職員はおらず,やはり上流川町の演奏所からの放送であることがわかります。ここには女性が何人かいて,生き残った人もいました。

しかし,女性アナウンサー(当時は放送員という名称でした)は3人だけで,しかも当日勤務していた方は1人で,インタビューしたところ,爆風で気を失っていたので私ではない,とのこと。

他に女性事務員の方がいましたが,いずれも別の部屋にいたり,自宅にいたりして,おそらく違うだろう,と言う結論になりました。

また,先ほどの写真については,もちろん,後日の写真で,投下直後の写真ではなく,原子爆弾炸裂後はそれなりに原状を保った状態で,焼け野原になったのはしばらくあと,と言うことがわかります。

つまり,火の手が迫るまでに,生き残った女性が放送したのではないか......と。

さらに,放送所との放送線と,連絡電話の電話線は,やはり爆撃を警戒してもとから太田川河底に設けられており,少なくとも電話線は通じていて,これも2回ほど,実際に演奏所から放送所へ電話が通じたようです。

当時は放送線も連絡線も同じアナログの音声回線ですから,絶縁不良でクロストークを生じることがあったし,電話で必死に各局へ連絡を取ろうとしていたので,その声が電波に乗って流れたのでは,という推測は成り立ちそうです。

当時,逓信大臣から「いかなる事態になっても放送を継続すること」,の指示があり,自局で継続できない場合は他局に依頼することになっており,職員は必死になって放送の継続に努めたのだろう,と思います。放送局も戦場のひとつ,でした。

結局,筆者の努力にもかかわらず,誰が放送したのか,また,その人の生死についても明らかにはならないのですが.....。

      ☆            ☆          ☆

AMラジオの歴史を調べているうちに,戦争末期の秘話を調べることができました。

とても内容の濃い,大変な労作だと思います。

後半は広島への原爆投下に際して,空襲警報が出されたのか,という問題に取り組んでいますが,話は複雑で,再読しないと理解しにくく,今,もう一度,読み返しているところです。

wikiを読むと当日,8:13に中国軍管区情報として,B29 3機が接近中......と放送がなされたように書かれていますが,これは当時のアナウンサーの手記に基づくもので,筆者は綿密な調査の上,そのアナウンサーの記憶違い,と断定しています。ラジオからは直前の警報は流れなかったでしょうし,wikiの記述は誤りだと思います。

残念ながら,30年前の出版で,すでに絶版だと思って,近くの図書館で借りて読みました。それもすでに開架にはなく,閉架式書庫に収蔵されていました。ところが,まだamazonを見ても在庫があるようです。今度,買っておこう,と思いました。ぜひ,手元に置いておいて,折に触れ,読み返してみたい,と思います。


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