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Christopher Clark著 "The sleepwalkers:How Europe went to war in 1914" [海外]

2018年4月28日の日記

sleepwalkers.jpg

とうとう,1年かかって読み終えました。さすがに本文で560ページもある大部な本だし,英語も少々,難しくて手こずりました。みすず書房から "夢遊病者たち~第一次世界大戦はいかにして始まったか~" として邦訳も出ています。日経の書評などで絶賛されていましたね。 

ただ,さすがに上下刊で1万円を超える値段じゃ,買えません。このペーパーバックはAmazonで1,242円で買いました。ただ,今日見てみると1,803円もするので,ずいぶんと安く買っていたようです。

Barbara Tuchmanの "The guns of August" を読んで以来,ずっと第1次世界大戦の経緯について興味があるのでいろんな本を読んでいます。 

第2次世界大戦の陰に隠れ,今まであまり第1次世界大戦の方は注目されることはなかったと思います。しかし,第2次世界大戦は第1次世界大戦の帰結後の欧州があまりにもひずみを多く残し,その戦後処理がよくなかったからヒトラーを生み,第2次世界大戦になったというのは疑いないことですし,平和確立という目的に隠れ,戦後処理という名の勝者間の権益調整だけでしかなかったヴェルサイユ講和会議をはじめとして,第1次世界大戦の勝者の側の責任についても語るべき時が来たのではないかと思います。やはり歴史は後世の歴史家によって公平な立場で記録されるべきです。 

2014年が開戦100年ということもあり,TVなどでいろいろドキュメンタリーも放送されましたし,本も出版されました。中には当時のフィルムをカラー化したドキュメンタリーもあって驚きました。この本もその一連の流れの中で出版されました。Tuchmanの本は1962年刊行なので,随分と古いので,それから50年経って,いかに見方が変わったかを調べてみたいと思いました。 

確かに,Tuchmanの本はオーストリアを老獪で好戦的な国として描いて悪役でしたが,周辺の大国が覇権を争い,虎視眈々と次の機会を狙っていたため,絶好の好機としてとらえたという見方は出版当時でも異色のもので,いろいろ批判はあったと思いますが,iruchanもこの見方は非常に鋭いと思いますし,ビュリツァー賞を受賞しているだけあって,読み応えがあり,大変面白い本でした。 

一方,Clarkのこの本は著者がケンブリッジ大学の教授と言うこともあり,学術論文みたいな堅い本になっています。とはいえ,非常に面白く,一気に読めると思います。 

見方としては従来の見方どおり,セルビアがオーストリアの皇位継承者を暗殺した黒幕で,オーストリアとセルビアの局地紛争が世界大戦に拡大した,という見方です。 

物語は1903年6月11日のセルビアのアレクサンダル国王夫妻の誅殺事件からはじまります。 

その夜,28人のセルビア陸軍士官たちが王宮に侵入,隠し部屋に逃げた国王夫妻を引きずり出して銃殺します。それでは足りなかったのか,2人とも死体をバラバラにされた上,血まみれのドラガ王妃は寝室から外につるされ,王宮の前庭に捨てられます。 

どうしてそういうことになったのか.....読者はここから物語に引きずり込まれます。 

原因は王朝内の権力闘争にあるのですが,後日,ルーマニアに亡命していたカラジョルジェヴィチ家のペーターが復位します。前王のアレクサンダルは父親のミランが行った圧政を踏襲し,国民の怒りがたまっていました。特にドラガ王妃は身分が卑しく,醜聞が絶えませんでした。いろんな男と寝る女で,国王が結婚を決意した折に閣僚がやめるよう助言し,中でも内務相が "あの女は誰とでも寝るんです。私もその1人です" と忠告して国王から平手打ちされた,という有名なエピソードもあるようです。 

このクーデターの首謀者がアピスで,28人の士官たちは何のお咎めも受けないばかりか,国民の英雄として振る舞い,セルビアの政治を牛耳ることとなります。とても法治国家とは思えない,あまりにも暴力的で残虐きわまりないクーデターです。このような歴史では新国家の体制が健全な成長をするとはとても思えません。もちろん,新国王はクーデターの首謀者たちに頭が上がらないわけですからどういう帰結になるか予想はつくのですが......。 

セルビアは1878年にオスマン・トルコから独立しますが,国民の大部分はオスマン・トルコ領主の農奴であり,教育水準も低く,しかも,独立後,自作農が増えたため人口が急増し,国民は貧困にあえぐことは少しもかわりありませんでした。教育については,1900年の段階で,教員を養成するための大学が国内に4ヶ所しかなく,識字率も北部で27%にすぎず,南部にいたっては12%しかない,という状況が明らかにされていきます。政府も武器をフランスから購入するための国防費が圧迫している状況が明らかにされます。 

こうした国内状況と,大昔はセルビアは大国だったことから領土拡張を主張するBlack Handという極右の国粋主義者のグループが力を得ていくこととなります。オーストリア皇位継承者を暗殺したプリンチップもその1人でした。時の首相,パシッチはBlack Handとつながりがあり,暗殺計画については事前に知っていました.....。

と言う次第で,冒頭の第1部はほとんど "ならず者国家"(rogue country)としてのセルビアの内情を描くことに終始しています。 

ただ,意外にも最終章では,オーストリアが最後通牒を突きつけた際,その回答は穏当で現実的なもの,と評価していますし,セルビアはならず者国家ではないと書いているのがちょっと違和感があるのですけどね....。

よく,新聞連載小説かなんかで,書いているうちに読者の反響などを元にしてストーリーが変わっていく,と言う話を聞きますが,セルビアに対しては明らかに筆致が変わっています。 

一方,オーストリアに対しては,Tuchmanとは分析が異なり,どちらかと言えばならず者の隣人への対応に苦慮する被害者,という印象を受けます。実際,オスマン・トルコ同様,退潮しつつある大国として周辺環境の変化に苦慮しつつ,国際秩序の維持に努めていたのは事実でしょう。 

第1次世界大戦は2次に渡るバルカン戦争を発端として,第3次バルカン戦争とでも言うべきものですが,バルカン戦争の契機になったのはイタリア・トルコ戦争です。1911年9月,イタリアが対岸のトルコ領リビアを攻め,トリポリとキレナイカを割譲させます。これを横で見ていてトルコの弱体化を察知したバルカン諸国がトルコに宣戦布告したのが第1次バルカン戦争です。 

このイタリア・トルコ戦争については昔はたいした研究もされず,iruchanも高校の世界史で習った記憶がありません。おそらく,昔は教えなかったのでしょう。改めて娘の世界史の教科書を見るとこの戦争が載っていて,やはり歴史の解明が進み,教科書の記述が変わっているのだと思います。この戦争の政治的な影響は決して小さくありません。 

イタリア・トルコ戦争の講和会議がスイスのローザンヌで始まった同じ日(1912年10月18日)にセルビア国王ペーターはトルコに宣戦布告します。 

この戦争はセルビアがトルコ領だったアルバニアを攻め,念願のエーゲ海に進出を果たしますが,ブルガリアが強すぎ,一時はコンスタンチノープルまで占領する勢いだったのをロシアが止めるくらいの勢いで,バルカン半島に大幅領土拡大することに成功します。ボスポラス海峡がロシアの生命線だったのですが,ここをブルガリアが支配するよりもオスマン・トルコの方が御しやすいと思ったのでしょう。 

強すぎたブルガリアに対し,内輪もめでセルビア,ルーマニアなどの他のバルカン諸国と,失地回復を狙ったオスマン・トルコが宣戦布告したのが第2次バルカン戦争です。 

この戦争でブルガリアは敗北して獲得したばかりの領土を失い,一方,セルビアはアルバニアの分割に失敗し,取り分? が不足だと不満を抱くことになります。これが次の第3次バルカン戦争である第1次世界大戦の引き金となります。 

         ☆        ☆        ☆ 

1914年7月23日午後6時,ベオグラード駐在のオーストリア大使が最後通牒を手交します。1時間前に仏大統領のポアンカレがニコライ2世と今後を相談するためペテルブルクへ赴いてから帰国の途についたのを確認してからのことです。セルビア首相のパシッチは休暇のため,地方へ出かけていました。

実はオーストリアの最後通牒はこれで2回目です。 

1912年11月,セルビアとモンテネグロはアルバニアに出兵し,占領します。オーストリアはこれ以上,セルビアの要求は容認できないとして最後通牒を発しています。これが1912年冬の危機です。特に,オーストリアが1878年,露土戦争の結果,セルビア人などスラブ系民族が多数住んでいたボスニア・ヘルツェゴビナを統治し,最終的に1908年に併合していて,ここに波及してくるのは必至と考えていたためです。 
 
このときはセルビアが譲歩し,撤兵に同意したので,戦争には至りませんでした。しかし,セルビア国内の民族的機運は鎮まるどころが,かえって燃えさかるのは明らかで,それが1914年6月28日の暗殺事件につながるわけです。 
 
この日,オーストリアの皇位継承者である,フランツ・フェルディナンド大公夫妻がサラエボを訪れます。現地で開催される軍事演習の視察のためです。すでにテロが懸念されていて,視察の中止も助言されていたのですが,彼は強行します。この日は彼らの結婚記念日でした。と同時に,この日は14世紀にセルビアがトルコに大敗したコソボの戦いの日でもあり,セルビア人にとっては屈辱の日でした。そもそも,こういう日に軍事演習をやろう,なんてやはり挑発行為でもあるわけで,先日,アメリカがイスラエル建国の日に大使館をエルサレムに移設しましたが,パレスチナ人たちにとっては同様に屈辱の日でもあり,そういった日にこのようなことをするとどうなるかは歴史の教えるところだと思うのですが.....。
 
実際,この日午前,サラエボ駅から市庁舎へ向かう途中,Black Handの一味が車列に爆弾を投げつけ,暗殺未遂事件が起こっています。このときは難を逃れましたが,市庁舎からの帰途,遭難します。帰途も危険だからと,予定を変更して別の目的地に向かいます。しかし,車列はコースを外れ,ラテン橋のたもとの交差点を右折してしまいます。本来はこのまま,アッペル・キー通りを直進するはずでしたが,最初の予定のコースであったフランツ・ヨーゼフ通りに入ろうとしました。 
 
実はコース変更が運転手に伝わっていませんでした......。
 
一旦,もとのコースに戻るにはバックしないといけませんが,当時の車はバックギヤがないためバックできず,大勢で押しながらバックする,と言うはめになります。 
フランツ・ヨーゼフ通りで待っていた暗殺犯は騒ぎを聞きつけ,フェルディナンド大公の車に近づきます。至近距離で2発発射し,1発は大公の首に命中して頸静脈を損傷し,もう1発は少しためらったようですが,夫人の腹に向けて撃ち,腹部大動脈を損傷して即死でした。婦人は妊娠中だったようです。
  
こうして,オーストリア軍のトップを務めていてハト派でセルビアに対しても非戦論を唱えていた大公が死去したことにより,オーストリア政府は主戦派が占めることになります。
 
オーストリアの最後通牒に対する回答期限は48時間でした。

回答期限5分前,パシッチ首相自らオーストリア公使館に赴き,セルビアの回答を手交します。回答を受け取るやいなや,公使館職員はすでに家財を載せて準備していた迎えの車に乗り,ベオグラード駅から列車に乗車します。10分後,オーストリア国境を越える鉄橋を渡り,帰国しました。

iruchanはこのとき,たまたま電車に乗っていたのですけど,このときの緊迫感はただ事じゃありませんでした。まさに手に汗握る,とはこのことですね。 

セルビアの回答は穏当なもので,オーストリアが突きつけた共同調査委員会の設置やセルビア政府内のBlack Handの黒幕の逮捕を拒絶したものの,大部分はオーストリアの要求を呑んだものでしたが,すでに戦争に向けて事態は動いていました。オーストリア軍も動員が開始され,セルビア政府は南部ニスへ避難を開始します。 

そもそも10分で国境に着くくらいですから,ベオグラードはオーストリアに接していてサバ川を渡ればすぐオーストリア=ハンガリー帝国だったわけですね。これじゃ,今のソウルより国境は近いわけで,大砲じゃなくて機関銃でも弾が届くくらいの距離です。 

7月28日,ついにオーストリアは対セルビア宣戦布告を行います。 

しかし,ここまでならオーストリアとセルビアの局地戦で終わるだけでしたが,ロシアが翌日,部分動員を開始し,それを察知したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は31日にSIDW(State of Imminent Danger of War)を宣言します。8月1日,ドイツがロシアに宣戦布告します。 

ヴィルヘルム2世は対露戦争をするだけのつもりだったのですが,参謀総長の小モルトケ(普仏戦争の立役者の大モルトケは叔父)は背後から襲われることを最大限警戒すべきとし,対仏戦争の準備を始めていました。自軍が西に向かっていることを知った皇帝は最前線のルクセンブルクの鉄道駅を攻撃する一指揮官に直接電話をかけて戦争を止めようとしますが,モルトケは言いました。"もはや戦争は止められません。" 8月3日にドイツはベルギー,フランスに宣戦布告します。 

このとき,まだイギリスは参戦を決めていませんでした。三国協商は相互防衛義務はなく,フランスが攻撃されてもイギリスが参戦する義務はありませんでしたが,イギリスはベルギーとの間に保障条約を結んでいて,ベルギーの中立が侵された場合は参戦することになっていました。ベルギーは独立に際して1839年に各国と中立条約を結んでいました。一方,ドイツは2正面作戦を避けるため,短期決戦でフランスを下したのち,ロシアに対峙する計画で,早期にフランスへ侵入する必要性からベルギーの中立を侵す計画でした。 

ただ,イギリスが参戦する前,奇妙な情報があり,駐ロンドン大使のリヒノフスキーに外相グレイ(紅茶で有名なアール・グレイの兄弟のひ孫)が "イギリスは(イギリスの)中立を守る" と言ったらしいのです。もし,これが事実ならドイツは非常に有利なわけです。独政府内は期待しつつも混乱します。翌日,再度,確認のため訪れたリヒノフスキーにグレイは冷淡な対応で,どうやら昨日の話は嘘だったということがわかります。

結局,イギリスはベルギー侵略に抗議して8月4日,対独宣戦布告をします。

こうして第1次世界大戦が勃発することとなります。

        ☆        ☆        ☆

それにしても長い本でしたが,息をつかせぬ展開で,途中でやめることなく,読み終えたのでよかったと思います。学者の先生が書いた割には先のグレイのウソ話などエピソード満載で,飽きさせないストーリー展開で,本当に読ませてくれます。

そもそも,オーストリアのフランツ・フェルディナンド大公がなんで皇太子じゃないのか?

そういえば,われわれは中学の時,オーストリア皇太子暗殺事件なんて習わなかったでしょうか。

皇太子は広辞苑によれば "皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号" であり,やはり皇子である以上,皇帝の息子であるはずですが,フランツ・フェルディナンドは息子じゃなく,甥です。

じゃ,長男はどうなった? というと長男のルドルフは心中未遂事件を起こして自殺していますし,妻は有名なエリザベートですが,レマン湖畔(原書では英語圏の慣例通り,ジュネーブ湖と書いてあります)でアナーキストに刺殺されています。また,弟のメキシコ皇帝マクシミリアンは革命で処刑されています。かわいがっていた姪はたばこの火がドレスに着いて焼死しています。

と言うわけで,実質的にオーストリアの最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフはまわりに不幸が絶えず,本当に気の毒ですが,これらの話は本に出ています。

また,驚いたのはサラエボ事件後の緊迫の最中の7月10日,駐ベオグラードのロシア大使ハートヴィヒが休暇から戻ったオーストリアのギースル公使宅でたばこを吸った直後に死亡した,と言う話です。

どうやら,3日にフランツ・フェルディナンド大公の葬儀が行われた際,ロシア大使館が唯一,半旗にしなかったことが英伊の弔問団に知られ,その釈明に訪れたようなのですが,狭心症を患っていたとは言え,あまりにも不可解な死で,現在でも真相は不明なのですが,本当にミステリアスな事件だと思います。

それにしてもこういった驚くべき話も満載で,第1次世界大戦までの経緯を描いた本としては超一流の歴史本だと思いましたが,最後の最後の結論だけはいただけません。

最後のconclusionでは第1次世界大戦の主犯を結局は,"犯人は現実を見ずにさまよい歩いていた夢遊病の政治家たちだ" として犯人を名指ししていないのは歴史学者としての責任放棄だとしか思えません。"歴史学はアガサ・クリスティーの小説ではない" なんて言い訳を書いているのですけど.....。それをするのがあんたの仕事だろ,と思いました。

やはり犯人はセルビア。ならず者国家でテロを黙認すると言うよりはもっと実際には積極的に支援していたわけですし,今ならテロ支援国家に指定されるでしょう。それに90年代に惨禍を極めたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争も原因はセルビアが地域の覇権を求めたためでしたし,セルビア人たちの意識は今も変わっていないように見受けられます。

共犯はロシア。オーストリアと "舎弟" セルビア間の局地紛争に介入し,部分的に抑止力として国境付近でにらみをきかせる程度にとどめておけばよかったのに,全面動員してドイツと戦おうとしました。ニコライ2世はそのつもりではなく,部分動員にとどめるつもりだったようですが.....。一方,オーストリアの後ろ盾のドイツの責任も重大です。最初からフランスをやっつけるつもりで西に向かったのも誤りでしょう。ヴィルヘルム2世もそのつもりはありませんでした。

まだ,第1次世界大戦も総括する時期としては早いのかもしれません。結論部分は歴史的にはこういった内容だと思うのですけど......。

     ☆          ☆          ☆

2020年2月24日追記

ピーター・ジャクソン監督の "彼らは生きていた" (原題:"They shall not grow old")を見てきました。

ロンドンの帝国戦争博物館などに保存されている第1次世界大戦当時のサイレント&白黒の記録映像と,BBCが記録していた,生還した兵士達の証言をまとめた記録映画です。

驚いたことに,冒頭にも書きましたが,最新の映像技術を駆使し,見事に3Dカラー映像となっているのが評判ですね。緑色のマークⅠ戦車が何台も動く映像などは大迫力です。

さすがに,当時はまだトーキーすらない頃なので爆弾が炸裂する音や銃弾が飛び交う音は "後付け" です。カラー化も含め,そう言う点はやはり賛否があろうかと思います。

しかし,やはりカラーの映像の迫真性はものすごいものだと思います。映画館で再生される音は映画館の再生システムにもよるとは思いますが,まさに頭上を銃弾が飛び交い,爆弾が炸裂し,破片が飛んでくる様はまさに今,1914年の塹壕にいるように感じられるほど,大迫力です。

一切,ナレーションや音声の字幕以外の説明のキャプションはないのですが,証言者の生々しい声はやはり傾聴すべきものです。

実際の戦場とはどういうものだったのか.....。死体がありとあらゆるところに転がり,緑色の毒ガスが襲ってきて,冷たい水や氷が脚を壊死させ,シラミが蔓延する......地獄の塹壕での生々しい状況が再現されています。

兵士達の仕事? も克明に描写されています。2時間ごとの任務と4時間の休憩の間に眠る,とか,2日間勤務して4日間休息のため,前線から後退するとか,まったく知りませんでした。


BBCが記録した証言はなによりとても貴重で,実際の戦場がどのようなものであったのか....最後は1918年11月11日午前11:00の休戦の日の状況と美しい夕日で終わっていますが,そのとき,なにも歓声がなかった,という証言はあっけにとられましたが,実際はそのようなものだったのでしょう。その日,夕日が美しかったでしょう。印象的なラストは赤い陽が沈む映像で締めくくられています。

あくまでも戦争博物館の映像が主体だし,監督もスタッフも英国人なので,あくまでも英兵の目で見た戦争記録映像となっているのが残念ですが,続編ではなくても,ドイツやフランスでも同様の映画が作られることを望みます。

印象的だったのは捕虜となったドイツ兵との交流。驚くほど彼らは従順だった,と言う証言があり,彼らと帽子を交換したり,愉快に談笑したりしている映像が少し救いになりました。憎しみなんてなかった,という英兵の証言は重いです。お互いに命令を忠実に実行していただけなのだ......戦争はなんの利益もない,という証言は永遠に伝えたいと思います。

チャーチルが息をのんだという,キューブリックの "突撃" もやはり真実の映像の前にはかなわない,と思いました。
 
この記録映画は戦争の悲惨さを描いてあまりあるし,恐ろしいほど迫真の映像は,うちの子供らにもぜひ見せたいと思いました。


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